ボスニアヘルツェゴヴィナ

サラエボ事件の現場とジェノサイド博物館でスレブレニツァの虐殺について知る(Day409-410)

ボスニアヘルツェゴヴィナ
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1€(ユーロ)≒175円、1兌換マルク≒88円
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ4日目、モスタール3日目

モスタールから首都のサラエボに移動する。
ヨーロッパに入ってからずっと繋がっていたamazonで購入したヨーロッパSIMは、ボスニア・ヘルツェゴビナに入ってから全く繋がらなくなった。シェンゲン圏外は繋がらないようだ。

そしていつの間にか荷物が少なくなり、ドゥブロヴニクのどこかで日本から持ってきていたユニクロウルトラライトダウンを失くしたことに気付く。ペトラに続いて2回目だ。6,900円と地味に結構するのだが。
夜や飛行機の中での防寒用にと持ち歩いていたが、イタリア以降、夜も暑すぎるのでもう要らないだろう。荷物が減ってすっきりしたと思うことにする。

モスタールからサラエヴォへ移動

12時45分。
モスタールのホテルムサカの親切なオーナーに別れを告げ、サラエボ行きのバスに乗る。
車体にバス会社名も行き先もないので、人に聞かないとどのバスに乗っていいか分からない。

ここで、これまでヨーロッパに入ってからは全く取られなかった荷物預け代1.5マルクを運転手から取られた。モロッコや中米同様、これを取られると発展途上国感がある。しかし、ボスニアヘルツゴミナは近いうちにEUの仲間入りを果たすべく準備中の国。

Sarajevo Bus station

16時、サラエヴォのバスターミナルに到着。

市内中心地に近い方のバスターミナルだが、ここは治安が悪いらしく、降りてすぐ移民風の女性に笑顔で「お金をくれ」と言われた。外国人観光客が少ないので私を見つけて一目散に駆け寄ってきたのだろう。ボスニアに入ってからアジア人観光客は私以外全く見ない。

次はセルビアへ行くので、明後日のベオグラード行きのバスチケットが買えないか窓口で聞いてみたが、東バスターミナルからしか出ていないという。このバス停からもバスが出ているという記事を見たが、現在は出ていないようだ。

サラエボは紛争の名残でボスニア人居住区とセルビア人居住区とに別れていて、地図を見てもボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国で線を引かれている。セルビア人居住区のある東バスターミナルからしかセルビアには行けない。ちなみに東バスターミナルという名前だが中心地よりかなり西にある。

バス停から宿まで徒歩35分。スーツケースを引きずって歩き出したが、やはりしんどいのでバスに乗ることにした。近くにあるショッピングモールに寄るとwi-fi が飛んでいたので、乗るべきバスの場所と番号を確認し、3番の黄色いバスが来たら運転手に現金1.8マルクを渡してチケットを購入。

Ljubicica Hostel

宿は男女混合ドミトリー。市税も入れて20マルク(1,780円)。受付の女性は感じ良かったが、共用スペースの落書きはカオス。

下の段をアサインしてくれたが、ヨーロッパに入ってからはどういうベッドの造りなのか、下の段だと首を曲げないと座れないことがあり上の段の方が良かったりする。ここもそんな感じ。

長期滞在のイタリア人男性は部屋で何時間も大声で家族と通話していてうるさい、ルームメイトガチャにまたハズレた。観光も仕事もしないのに毎日スーツ姿でドミトリーに居るので意味不明だ。イタリア人ってやはりかっこつけなのだろうか?

この宿はWi-Fiが遅い。使い物にならなかった。

サラエボ観光

お腹が空いたので夜ご飯を食べに行く。宿の目の前が観光地の広場で便利だった。

歩いていて勧誘されたレストランに入り、キノコリゾットとビールを頼む。
レストランのwi-fi を繋げてから見たらGoogleの口コミが2.7と悪過ぎて出たくなった。やはりSIM欲しいな・・・

だが、出てきたリゾットはびっくりするぐらい美味しかった。30分以上待たされたけど。
ボスニアにはきっと不味いものなどないのだろう。
13マルクだったが、何故か最後に2マルク追加て請求される。サービス料かな。

サラエボローズ

街を歩いていると、道に血痕かと思うような跡がいきなり現れぎょっとする。これはいくつもある。

サラエボローズという。
セルビアによる迫撃砲の砲弾で死者を出した爆発の跡を、後に赤い樹脂で埋めたものである。毎日平均300個以上の砲弾を投下し、12,000人以上が亡くなったという。
過去の忌まわしい記憶を思い起こさせるのに、これほど視覚に訴えるものはないな・・・
見る度にここで何人亡くなったのかと考えさせられてしまう。

ラテン橋

サラエボといえば第1次世界対戦の引き金となったサラエボ事件が起こった橋があるので歩いて行ってみる。

ラテン橋。1914年、ここでオーストリア皇太子夫妻をセルビア人青年が暗殺し、第一次世界大戦が勃発した。

皇太子夫妻が乗っていた車のレプリカもある。二人を乗せた運転手が道を間違えなければご夫婦は暗殺されなかったかもしれない。ただこの事件がなくても当時バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていて第一次世界大戦は免れなかったという見方が多い。


次の日。

Gallery 11/07/95 (スレブレニツァの虐殺博物館)

歩いていると「Gallery 11/07/95」という目立つ看板を見つけた。ジェノサイド博物館だ。
近くには他にも紛争博物館は「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」「戦争の中の子ども博物館」などがあり、サラエボ事件に関する博物館もある。
なぜかこれにひかれ恐る恐る入ってみた。

入場料15マルク。なんと日本語オーディオガイドがあった。いつも中国語しかないのに。オーディオ4マルク。

ここは1995年7月、セルビア国境に近いスレブレニツァの街で、7000人に及ぶ男性が虐殺されたことに関する博物館だった。これまでカンボジアやアルメニアなどでこの手の博物館は見てきた。しかしそれらよりも更に最近の出来事のため、鮮明な映像や写真が生々しい。生き残った人のインタビューも沢山ある。

「国連の管理下にあるので安全」と言われたスレブレニツァにいたボシャニャク人らは男性と女性に分けられ、男性のほとんどはスルプスカ共和国軍によって殺害された。当時国連のオランダ軍がここにはいたが、何もしてくれなかった。

スルプスカ共和国軍はこの虐殺を隠すために遺体を何箇所にも移動させながら埋めたので、遺骨や遺品はバラバラに埋められてた。DNA鑑定をしながら今でも家族の元に戻す活動は続いている。
スルプスカ共和国軍ってすぐ隣の・・・お互いどう思っているのだろうか。聞ける訳もないが。

この橋も暗殺場所でなければ、綺麗な景色を楽しめるのに。

戦争で犠牲になった方を忘れないために灯してる永遠の炎。

宿の横のパン屋でボスニア名物のブレクというパンを購入。筒になったパイ生地の中に引き肉やチーズなどが入っている。

スーパーで購入したビールやウインナーと食す。少し噛み切り辛いが、美味しかった。
そしてイタリア人男性は今日も電話でうるさく、ドミトリーの電気が消えたら他のベッドの男性が隣に座って話し掛けてきた。真っ暗なので怖かった。私の年齢知ってんのかな、この人。「もう寝るので。」と断って無視する。

明日はセルビアへ移動だ

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